1918年、24歳の竹鶴政孝はグラスゴー大学で有機化学を学び、スコットランドの三つの蒸留所で修業しました。その二冊の「竹鶴ノート」が、日本ウイスキーの出発点です。サントリー、ニッカ、そのすべてのヘリテージ・キャンペーンは、遅かれ早かれスコットランドの風景を必要とします。私たちは、その撮影を現地で支援するプロダクション・サービスです。
広島県竹原市。三百年続く酒造家の家に生まれた竹鶴政孝は、大阪の摂津酒造に勤めた後、1918年、二十四歳のときに社命でスコットランドに渡ります。目的はただ一つ、本場のウイスキー製造技術を、日本に持ち帰ることでした。
グラスゴー大学に入学し、有機化学をイネス教授のもとで学びます。そして、スコットランドの三つの蒸留所で実地の修業を積みました。その二年間で竹鶴が書き留めた膨大な記録は、後に「竹鶴ノート」と呼ばれ、現在もニッカウヰスキー余市蒸溜所に保管されている、日本ウイスキーの根本文献です。
竹鶴が最も詳細に記録を残した蒸留所です。モルトウイスキーの製造工程を、原料の大麦から蒸留、熟成に至るまで、ここで学びました。現在もペルノ・リカール傘下で操業しており、外観の撮影は可能です。内部の撮影はブランド承認が必要ですが、竹鶴のヘリテージ・ストーリーを持って交渉すれば、通常より前向きな対応が期待できます。
ジェームズ・コルダー社が運営していたグレーンウイスキー蒸留所です。竹鶴はここで、ブレンディング(調和のためのブレンド)の技術を学びました。1925年に閉鎖され、現在は遺構が残るのみですが、隣接するボーネス&キニール保存鉄道と組み合わせた歴史的な絵作りが可能です。
キャンベルタウンで下宿していたコワン家で、竹鶴は生涯の伴侶となるジェシー・ロバータ(リタ)と出会います。両家の反対を押し切り、1920年に結婚しました。元のヘーゼルバーン蒸留所も1925年に閉鎖されましたが、同じキャンベルタウンで今も操業するスプリングバンク蒸留所が、現在「Hazelburn」ブランド名でウイスキーを製造しており、モルトの物語は生きています。コワン家の下宿があった付近のキルキンティロックも、撮影の候補地です。
竹鶴のスコットランド修業から、およそ一世紀。現在、日本ウイスキーは世界最高の評価を受ける酒類の一つとなりました。その原点は、スコットランドの三つの蒸留所と、コワン家の下宿と、二冊のノートにあります。ヘリテージ・ストーリーとしての強度は、他のどの高級酒ブランドの物語にも劣りません。
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